ホルモンでお食い初め

広島在住、30代おじさんのお食い初め(初体験)記録

痴呆と感情

ばあちゃんの痴呆が僕の中で表面化したのは2015年3月くらいのことだったと思う。実家の近所にある野菜直売所にて、僕の奥さんを見ながら「あの人は誰やったかねぇ」そう聞いてきた。日常的には何ら違和感なく、ただ瞬間的に記憶がごっそり抜ける、という印象を持った。そんな様子を見ながら、痴呆は、瞬間的だった記憶の消失が徐々にその期間を延ばし、或いはその発生頻度を増やしていき、最終的には消失状態が常態化するものだと考えた。

少しずつ痴呆が進行していく中で、印象的だったばあちゃんの行動が1つある。僕が実家から自分の家に帰ろうとすると、言葉は無く手を握り、涙を浮かべるのだ。この行為に及ぶばあちゃんの真の思いはわからないが、帰って欲しくないというそれよりも、日々記憶が失われていく自分へのたまらない不安、孫である僕ですらも忘れてしまうのではないかという恐怖に抗う気持ちの現れではなかったかと今でも思っている。これを思うと悲しい気分になる。

映画「毎日がアルツハイマー」予告編

先日、「毎日がアルツハイマー」という映画を横川シネマで見た。本作の監督と痴呆の症状が出始めたお母様との日々の暮らしを映したドキュメンタリーだ。作中での約3年ほどの経過の中でゆるやかに進行する痴呆を見ながら、あぁうちのばあちゃんとは違うなぁ(我が家の場合は1年ほどで急速に失われた)と思いつつ、印象に残る会話が2つあった。どちらもアルツハイマー研究専門の医師によるもの。

1つは、痴呆にかかると全ての脳機能(或いは記憶)が失われると思われがちだけど、実際は脳機能のうちの5%に異常が見られるだけで残りの95%は正常に機能していると言うこと。言語(会話)に支障が無いことからもそれがわかるが、他にも増えてきた物忘れに対する周囲への羞恥心や苛立ちは人間として正常な感情表現なのだ。なるほどと思う。瞬間的に記憶は失われていくが、失われずに正常に機能し続けるものもあるのだ。

そしてもう1つ印象深かったことは、痴呆はその症状の1つに「多幸症状」と言うものがあること。迫りくる死への恐怖心から己を解放する側面もあるというのだ。となると、記憶が失われていくことへの不安から逃れたいがための、自己防衛的な経緯からの痴呆進行もあるのかもしれない。ばあちゃんの痴呆が凄いスピードで進行したのは、死への恐怖、失われていく記憶への不安に精神的な負荷がかかり、周囲への申し訳なさや自分自身に対する不信感で満たされていたからではないか。辛いが、そう考えることもできなくはない。自分に厳しい人、責任感の強い人、そんな精神的な違いによる進行速度の差もあるのかもしれない。

存命とは言え涙を浮かべながら手を握るばあちゃんはもういないし、話すことも自分で起き上がることもできない。けれど僕の母である娘が毎日、そして月1だけども健康を願う孫夫婦が会いにいっている状況を、ばあちゃんはどこかで喜んでくれていたら嬉しいなぁ。

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