ホルモンでお食い初め

広島在住、30代おじさんのお食い初め(初体験)記録

「空白の天気図」に見る広島原爆と枕崎台風

「空白の天気図」という小説を読んだ。まぁ面白くて、夢中で読んだ。原子爆弾とその直後に襲来した枕崎台風により壊滅的被害を受けた広島で、自ら被害に逢いながらも責務を全うする広島地方気象台の台員たちの姿を描いた話。

たまたまGooglemapで江波山気象館(旧広島地方気象台)を見つけ、調べる中でここを舞台にした本小説を知った。なぜ枕崎という鹿児島県の一地方の名が付いた台風と広島が結びつくのか。広島に住み、かつ奥さんの出身地が枕崎市である僕にとってはとても興味深い作品なのだ。

f:id:lomotani:20171122063431j:plain

江波山気象館(旧広島地方気象台)。1934年竣工。2017年11月11日撮影

冒頭に書いた通り、夢中で読んだ。原爆投下時の惨劇や人々の暮らしへの影響、混乱した社会の様子など、初めて知る事実が多い。その上、その時代の、広島の、苦しむ人々の息遣いまで聞こえるような生々しさである。本を読んでいて気になったページには折り目をつけるようにしているが、この本は折り目だらけになった。覚えておきたい事実や描写が多く、ここではその折り目をつけたページの一部を記録する。

記録は、内容によって大きく4つに分類する。(「気象業務と広島地方気象台に関すること」、「原爆に関すること」、「台風に関すること」、「戦時下の日本に関すること」)。なお、下記文章はほぼ原文ママ(一部要約)で、( )内は文春文庫版「空白の天気図」の該当ページ数を示したものである。

気象業務と広島地方気象台に関すること

  • 開戦と同時に陸海軍大臣は中央気象台長に対し命令で気象管制を実施。1941年12月8日から天気予報等の気象情報は国民の前から姿を消した。この気象管制は台風襲来などの災害時でも緩和されることはなかった。(P40)
  • 1945年8月22日より気象管制を解除、3年8ヶ月ぶりに天気予報が街に流れる。(NHKラジオ放送、東京地方の予報のみ)(P61-64)
  • 昭和19年が暮れる頃には、江波山に12門の高射砲が配置され、高射砲隊1個中隊が常駐。その中の1門は気象台の建物のすぐ南側の50mと離れていない場所にあった。(P74)
  • 測候技術官養成所(現:気象大学)は募集人員がわずかに15名。授業料は全額官費の上に全寮制。家庭の貧しい秀才がこぞって受験。海軍兵学校と並ぶ競争率でこの年も50倍という難関。※昭和5年当時(P120)

原爆に関すること

  • 夕暮れの道端から弱弱しい悲鳴とも鳴き声ともつかぬ、絞り出すような声が聞こえてきた。思わず立ちすくんだ。死人が呻いたのかと思われるような声だった。耳を澄ますと、それは明らかに女の声で「聞いてください、聞いてください」と言っていた。声のする方を覗うと、ほとんど一糸もまとわぬ女が仰むけに倒れていた。全身の皮膚は裂け、顔面はつぶれ、失明しており、生命を持続させているのが不思議なほどだった。肉片の襤褸(ぼろ)と言った方がよいような姿であった。近づくと、女は人が傍に来たのを感じたのであろう、絶え入るような声で「遺言を聞いてください」と言った。(P143-144)
  • 夕闇迫る空に敵の偵察機らしい一機が飛んで来た。その機影を目撃すると、呻いていた負傷者たちはいっせいに空に向かって、ありとあらゆる恨み言をわめき叫んだ。立ち上がって金切声を振り絞る女もいた。(P147)
  • 屍体置場の傍に「死体収容所」と朱色で書かれた紙片が掲示されていた。その字は明らかに血で書かれていた。「死体収容所」の横には収容屍体のうち身許の判明した者の氏名が列記してあったが、それも血で書かれてあった。(P163)
  • 同じように市内を歩き回って、同じように残留放射能の影響を受けても、人によって原爆症になったりならなかったりの差があった。気象台の台員の場合、年長者がバタバタとやられたのに対し、若くて体力のある者は原爆症の兆候すら見せなかった。(P215)
  • 京都大学理学部の荒勝研究室の若手雇員は8月7日夜、京都市内の下宿先で、手作りの短波受信機でハワイ放送を聞いているうちに、トルーマン大統領の重大声明をキャッチした。この声明は「広島に投下した爆弾はTNN火薬2万トンより強力な原子爆弾である」と明言した。翌8日、荒勝研究室は原子爆弾の話題で持ちきりとなったが、大本営はまだ、「原子爆弾」であるとは発表していなかった。当時、日本の原爆研究では、原子爆弾が実現するまでには、米国20年、日本50年という見方さえあり、敵も今次大戦中には間に合うまいと言うのが大方の見方であった。(P320)
  • 8月8日、大本営から荒勝教授と医学部の杉山教授に対し、至急広島の現地調査をして欲しいという依頼があった。両研究室では急遽調査団を編成し、翌9日夜京都を発って、満員の夜行列車に揺られて広島に向かった。一行が広島駅に着いたのは、10日正午であった。軍のトラックを借りて市内をまわり、爆心地に近い西練兵場のいも畑などまだ人が踏みつけていない場所を探しては、放射能測定のための土を採集した。十数か所から土を採集し、その夜の夜行列車に乗って、翌11日正午京都大学に帰った。結果、新型爆弾はある種の原子爆弾である可能性は極めて濃厚であると判断し、敵は原子爆弾を10個くらい持っていると思われるという推測とともに報告した。「これ以上戦争をやっても無駄だ」ということを軍にそれとなくわからせようとした。(P320-322)
  • 惨憺たる広島市街。町名も何もわからぬ。ただ瓦礫の街。家屋は何もなく焼け跡に所々かまど、洗い流しの壊れたのが残っている。燃えるものは皆燃え尽くしている。所々に死臭を嗅ぐ。道路のわきに人の腐敗死体あり。又馬の骨、くずれた肉を見る。脊椎骨、頭骨もある。この様子では一家全滅の家も無数にあることであろう。屋敷跡の所々に尋ねて来る人のために一家の立ち退き先や安全を告げる立札を見る。全く音の無いものすごき街である。(P334)
  • 爆心地から気象台まで3.6km。閃光と同時に発生した爆風がその距離を伝わって気象台に達するまでの所要時間が約5秒。ということになると、爆風の速度は、秒速約700mとなる。音速の約2倍だ。(P369-370)
  • 驚いたことに、雨戸にこびりついた泥から非常に強い放射能が出ていることが発見された。その雨戸は、2ヶ月前の原爆のとき爆風で庭に吹き飛ばされ、間もなく降ってきた黒ずんだ雨に打たれて、雨水中の泥分がこびりついていたのだった。その雨戸の傍に寝床を取っていた者はこれにより脱毛症状を起こした。(P372)
  • 爆心地から西北西に8kmの石内村湯戸東端「八幡川の水が真っ黒になってしもうた。鰻が死んで浮いとった。芋の葉の上に真っ黒いコールタールを流したような点々が残ったり、黒い雨のかかった草を食わせた牛が下痢をしたりじゃった」(P378)
  • 爆心地から北西に7kmの伴村「谷川に轟轟と真っ黒い水が流れて真白い泡を立て、鮠や鰻が死んだ、海老、蟹は生きとったが。紙やトタン板も飛んできて、雨と一緒に降ったんじゃ。稲は真っ黒になったが、不思議なほどによく育って、台風さえなければ豊作間違いなしだったのにのう」(P378)
  • 稲田の害虫がいなくなり、稲は特別の肥料を与えられたかのように異常な生育を示した。(P383)

台風に関すること

室戸台風

  • 1934年9月21日朝、大阪を中心に西日本一帯を史上空前の超大型台風が襲う。死者行方不明計3,036名、全壊家屋38,000余戸、浸水家屋40万1,000余戸。いわゆる室戸台風。特に悲惨なのは大阪でちょうど小中学校の登校時間とぶつかったため、多数の教師や子供たちが倒壊校舎の下敷きとなり教師と児童生徒の死者は大阪府だけで700人にのぼる惨事となった。世間は気象台に対し、ごうごうたる非難を浴びせた。(P131)
  • 中央気象台大阪支台も府立大阪測候所もともに大阪地方が暴風雨に襲われることを予想していたが、未曽有の大災害をもたらすほど猛烈な勢力を持ったものであるとは考えていなかったし、台風が急速に加速しつつあるという実態もつかめないままだった。(P134)
  • 平均風速 午前6時6.4m、午前7時12.8m、午前7時50分23.3m、午前8時29.8m
    つまり午前6時から7時にかけて府民が天気予報に接して家を出る頃には風も10m前後で警戒心を抱かせる状態ではなかった。7時半を過ぎ、人々が会社や学校に着いた頃から平均20mを超える暴風雨が荒れ狂いはじめたため、人々は非難することもできず不意打ちを受けた。午前8時3分には最大瞬間風速が60mを超えていた(P135)

枕崎台風

  • 枕崎台風の「調査報告書」より。「1945年9月17日九州南端枕崎付近に上陸。九州、中国を横断して日本海に出で、更に奥羽を横断して太平洋に出た。沖縄付近にあった頃既に中心示度720耗(※958hPa)以下と推定。実測最低気圧の値は昭和9年室戸岬で得られた世界的記録(海面更正値684.0耗 ※910hPa)」に匹敵。被害甚大、広島は死傷行方不明3,066名と全国で最も大きな被害が出た。(P70)
  • 枕崎測候所では午後2時40分には最低気圧687.5耗(916.6hPa)という記録的な気圧示度を観測(P235)
  • 太田川の激流は、流木で橋脚を突き崩し、次々に橋を流出させた。広島市内の流出した橋は、東大橋、天満橋明治橋、観音橋、庚午橋、大正橋、旭橋、住吉橋、電車横川鉄橋など20に及んだ。原爆で破壊されたり消失したりした橋が8箇所だったのに比べ、台風による橋の被害がいかに大きかったかがわかろう。(P260)
  • 後に広島市長となった広島市役所配給課長浜井信三はこの時の心情を後日次のように記している。「市役所の屋上から市中を見渡すと、全市が湖になっていた。瓦礫や倒れた家、ガラクタがすべて水の底にかくれ、一見美しい眺めであった。"原爆砂漠"が一夜にして"原爆湖水"にかわっている。これで一切合財が、徹底的に葬り去られた。私はヤケッパチな気持ちで、いっそ水がこのままひかなければよい、と思った」(P276-277)
  • 枕崎測候所の建物は半分破壊されていました。3年前に新築したばかりの枕崎駅も無残に潰れていました。枕崎は空襲で街がほとんど焼かれていたのですが、残っていたわずかばかりの家も、台風でひどく荒らされていました。最大瞬間風速が62.7mだったと言いますから、ひとたまりもなかったでしょう。(P298-299)
  • 厳島神社の被害は大きかった。本殿のまわりをはじめ社殿や回廊の大半が、床すれすれまで流出土砂で埋め尽くされ、建物に無数の傷みが生じていた。土石流にまともにさらされた天神社は、無残に潰されて床も柱も流され、土砂の上に屋根を残すだけとなった。(P305)
  • 厳島神社の復旧工事が始められたのは、実に3年後の昭和23年春になってからであった。きっかけはGHQのギャラ―美術記念部長であった。彼は日本の古代文化を伝える美しい神社が、災害を受けたまま放置されているのを見て、文部省に対し復旧事業を急ぐよう要請した。復旧工事が完了したのは、災害から6年も経った昭和26年3月になってからであった。(P306)
  • あの夜、風雨が激しくなったとき、それが台風であると知っていた被災者は皆無に近かった。原爆被害の調査のため広島を訪れていた京大研究調査班の場合でさえ、診療や研究に追われていたあまり、台風災害のことなど想像もしていなかったのである。仮に風雨が気になってラジオに耳を傾けたとしても、ローカルの気象情報が復活していない以上、全国ニュースからだけでどれだけの情報を得ることができただろうか。(P357)
  • 原子爆弾による広島の死者及び行方不明は20数万に上ったと言われる。これに対し枕崎台風による広島県下の死者及び行方不明は計2,012人である。前者に対し、後者は現実的で日常的な数字であるように見えるが、一夜にして2,000人を越える人命が失われたということは尋常ではない。しかも、枕崎台風による広島県下の犠牲者の数が、台風上陸地の九州地方全体の犠牲者数(442人)よりもはるかに多かったということには、何か特別の事情があったはずである。(P422)

戦時下の日本に関すること

  • 大本営は敵の上陸によって本土が分断された場合、各地方別に独自の活動ができるよう「地方総監府」を設けた。(P76)
  • NHK広島中央放送局は全焼し、多数の死傷者を出したが、生き残った放送局員によって、8月7日午前9時安佐郡祇園町の原放送所臨時スタジオから広島単独の放送電波を出し、県知事の「アラユル艱苦ヲ克服セヨ」という諭告を繰り返し放送した。(P173)
  • 7日には宇品の陸軍船舶司令部、翌8日には広島駅へも送電を再開(P189)
  • 玉音放送が終わると、「陛下に申し訳ない、俺は切腹する」とわめく者もいた。その日の午後は誰も仕事が手につかなかった。当番による観測業務は続けられたが、ほかのものは事務室などにたむろしては、進駐してくる敵米英軍によってわれわれは皆殺しにされるのではないか、といったことを取り留めもなく語り合った。想像することはみな悲観的なことばかりであった。(P192)

上記録終わり。

話は変わるが、「空白の天気図」を読んだ後にたまたま「ひろしま」という映画を見た。広島の街が、人が、原爆により壊滅する一部始終をこれ以上無いと思われるほどリアルに描写した作品。この映画でも気になったシーンは多かったが、中でもあるシーンに違和感を感じた。原爆投下後数日しか経たない見渡す限りの瓦礫が広がる街中で、役所の職員と思しき男が混乱する市民に向かって誰かの声明を読み上げているシーン。その中で「職場復帰セヨ」と語られていたこと。冷静に見れば「空気読めや」と即突っ込む光景だけど、これが戦時中の日本なのだろう。国民の職場復帰はつまり戦線復帰とされ、お国のための勤労を互いに監視し合うような、軍国主義を強く感じるシーンだった(あとでわかったことだが、これは当時の広島県知事、高野源進が8月7日に発表した「知事諭告」を読み上げているシーンであった)。

本書のあとがきには、作者の柳田邦男を引き付けた事実として「死傷者や病人が続出し、食うや食わずやという状況に置かれながらも、職業的な任務をしっかりと守り抜いた人々が実に多かった」という一文がある。作中で描かれる気象台員や研究者の気持ちの強さ、己の存在の多くを賭けて救助、仕事に取り組む様には背筋が伸びる思いを感じる。その一方で、ここにはそうさせる軍国主義下の空気もあったのではないかとも感じた。

原爆投下後数日で業務を再開した銀行や路面電車など、当時の人々の気概ある行動を美談として耳にすることがあるが、そこには違う側面もあったかもしれないと知れたことは良い発見だった。

なお、作中に頻繁に登場する広島市がまとめた原爆に関する資料「広島原爆戦災誌」は、広島平和記念資料館のサイトからダウンロード可能。このPDF版は、原本では見られる資料内の写真が抜かれているものの、容量も軽くありがたい。