「三次もののけミュージアム」と花街に見た幻想
広島県は三次市にある「三次もののけミュージアム」に行ってきた。妖怪研究家である湯本豪一さんの、5,000点に及ぶコレクションが寄贈された本館。そもそもなぜ三次で妖怪なのか疑問だったが、『稲生物怪録』と言う、江戸時代の三次が舞台となった妖怪物語があるそうだ。三次は妖怪界隈ではメジャーな土地なのだ。この、もののけミュージアムを含め、初めて訪れた三次で胸躍る幻想を見た。
江戸時代に作られた妖怪の木像。
廃仏毀釈からも逃れ、福島のお寺に保管されていたそうだが、何のために造られたかはわかっていないのだそう。
三次もののけミュージアム
広島バスセンターから直通の高速バスで約90分、片側一車線ののどかな道沿いに三次もののけミュージアムはあった。開館から2ヶ月経っていないこともあってか、子供連れの家族やバスツアーの観光客など随分と賑わっていた。
入館早々、エントランスに設置された大型のタッチパネル前で足が止まる。画面にはミュージアム所蔵?の妖怪コレクションが漂うように映され、タッチすると拡大&説明文が読める。その妖怪たちの姿の不思議なこと。気付けば自分が、パネルをタッチし続ける妖怪になっている。
展示エリアに入る。妖怪の起源や、人々の暮らしとの関係が絵や雑貨などを通じて紹介されている。そもそも妖怪は日常的には存在しないので、それらは誰かの心の中で生み出されたものになる。
展示物の中の妖怪は、オドロオドロシイものもいれば、愛らしさが過ぎるものもいる。恐怖、不安、喜び、親しみなど、様々な心情がこれらを生み出している。どんな思いが、その人にこの妖怪を見せた(生ませた)のだろうか。妖怪と表裏一体にある幻想の世界と人の想像力にわくわくした。
展示エリアに入ると、妖怪が動いていた
水虎≒河童だそう。甲羅の無いのは山姥のようにも見える
1番グッと来た、歌川貞秀「源頼光館土蜘作妖怪図」。不思議な優しい世界感。
写真では切れているが、絵の右上には土蜘蛛が間近に襲い掛かっている。のにこのノンビリした様子。
(調べてみると、天保の改革への風刺、説もあるとのこと)
子供の反応も面白かった。恐がり泣き叫ぶチビッ子がいれば、好奇心の塊のような目で展示物を凝視するチビッ子もいる。一方で印象的だったのは、「怖くない」と言ってつまらなそうにしていたチビッ子の姿。あぁ!勿体無い!
楽しんでいる子は、怖いものも、それ以外のものも含め、見たことのない不思議な存在そのものを楽しんでいるようだった。何だこれはと。仮に、妖怪に「怖さ」と言う価値がラベリングされていたとしても、別の価値を見出せるかどうかが大事だ。人生で大切なことはみんなもののけミュージアムで教わった、だ。
江戸時代の不思議な木像たち。1体1体どんなキャラなのか、江戸時代に行って聞いてみたい。
これなどは可愛さしか無い。連れて帰りたい。一緒にyoutubeとか見たい。
展示物の中には、チームラボが関わっているデジタルコンテンツもあった。描いたイラストがスキャナーによって取り込まれ、デジタル上で自由に踊る、と言うもの。気持ちだけは小学生に負けまいと、おじさんも加齢臭を出しながら全力で楽しんできた。
我が子を見るような表情で知らない子たちを撮る。
配布されている専用の用紙にクレヨンで絵を描き、スキャンする。
スキャンされた絵が画面に登場。狐面を描いたつもりが耳が無い。
動揺していると、用紙に印刷された人型の線をはみ出した部分は反映されない、とスタッフさんが教えてくれた。
幻想を堪能した。1点だけ不満を挙げると、ミュージアムショップで扱うグッズが個人的には期待外れだったので、より充実されていくとありがたい。いずれにせよ最高の場所だった。暫定で令和イチ楽しかった。
絶対にまた行くよ!
花街「大正町(現:松原稲荷通り)」とファミリーレストラン
もののけミュージアムを後にし、三次駅方面へと歩く。その途中、時が止まったような、少し雰囲気の異なる路地に吸い込まれた。松原稲荷通り。スナックやスタンドの看板が並ぶが、そのほとんどは色褪せ、店の入口は閉鎖されている。現役のお店もあるようだが、いつ頃から放置されているのかと思うほどに荒れた建物も少なくない。
(失礼な話、)この場所に飲み屋街ができるほど人の出入りがあったとは想像できないが、元々何かあったのだろうか。不思議に思いながらぶらぶら歩く中で、何となく気になって調べる。やはりここは花街だった。かつては大正町と呼ばれ、広島県北部では唯一にして最大規模を誇ったという。※ただし、遊郭関係から情報を調べても大正町の情報を見つけられず、どの程度の規模だったかはっきりしない
「松原稲荷通り」の出入り口。この坂を上ると、目の前には三次のシンボル「巴橋」がある
スナックのある小路に入れないようチェーンが張られている。
建物が傾いている。いつから放置されているのだろうか。
松原稲荷の脇にある建物からも、繁華街だった名残が伺える。
三次の娼婦は「三次だんご」と呼ばれていました。辞書によれば「ころぶ」の意味の一つに「芸者・酌婦などが隠れて売春すること」とあります。だんごは丸くて転がりやすい、つまりころぶので「団子(だんご)」と洒落たのでしょう。三次の場合は隠れてではなく公娼でしたが「三次だんご」とは、他所の花町とは異なった特色を持つ三次の花町をよく表わしたニックネームです。
連載:みよし街並み歴史散歩 その9 | 株式会社 菁文社のニュース | まいぷれ[三次市]より
つらい仕事から脱出を試みて目の前の馬洗川を泳いで渡ろうとしておぼれ死ぬものもいた。逃げてもすぐに連れ戻された。そんな彼女たちの信仰の対象として、いつしか、馬洗川の川中の岩に祠が祀られ、厳島神社が勧請された。遊郭の窓から彼女たちはこの神社を拝んだ。この花街から出ることもなく遊女たちは一生を終えた。
花街の哀歌~三次市松原稲荷通り界隈 | 大根役者より
松原稲荷神社にあった寄進札や、それらしき造りの建物。通りに微かに残る「旅館」の文字に、ここに出入りした人々、生きてきた女性たちの幻想を見た。
松原稲荷の寄進札板下で休む猫。近づくと逃げられた。
3階建ての建物。
松原稲荷通りを離れたあとは三次駅に向かいながら散策したが、これも楽しかった。今の時代には見ないような建物で営業を続ける金物屋や、オーバー30代ならピンと来るであろう、昔のデパートの最上階にあったようなファミリーレストランなど、時代を遡る町、三次。また必ず訪れたい。